Jリーグも20年かー。
当時、体育指導者派の会社員だった私は、畑違いのサッカーなるものを知識がない状態で子ども達に教えていました。小学生からは「リフティングもできない先生に教えてもらうのか・・・。」とストレートに言われたほどです。
こりゃイカンと思い20歳から始めたサッカー。走る・蹴るは出来ても、コントロールする は非常に難しい。足でボールを操るという壁に直面しました。
岐阜に部署移動しサッカー会場を週4日も受け持つことに。親御さんに見抜かれるのではないかと正直プレッシャーでした。時間さえあればリフティングの練習をしました。でも正直長かった。好きになるまでに何年もの時間を必要としました。
職員との会話にもついていけませんでした。ワールドカップ、代表選手、出場国、なんもわからん・・・。
そうこうしているうちにJリーグなるものが開幕。サッカーがメディア・スポーツショップ・服・幼児の靴に至るまで、周りから盛り上がっていった中で、そこそこのサッカー指導者になっていましたが私が本来やりたかったのは幼児体育指導者。この辺りから実は会社方針と自分のやりたい仕事とのズレガ生じ始めました。
ドーハの悲劇は病棟で見ていました。
土日はほとんどサッカー大会の見学や合宿・審判で潰れました。
凄い時は90日連勤でした。
この状況では結婚しても誰も喜ばないだろうと真剣に考えました。
唯一の救いは、各会場で愛弟子がみるみる成長していく過程を見るのが嬉しかった事でした。サッカー経験0からスタートした私でも地区大会で優勝し東海大何でも結果を出した子ども達の成長を見ていける。それだけが繋ぐ糸でした。
でもJリーグ誕生10年目にその会社を退職しました。力尽きました。子ども達には良い夢を見させていただきました。しかしながらサッカーを教えるだけでなく会員を増やすというノルマまで課せられた会社方針に対して、完全に私の理想が崩壊しました。
今は細々と幼児体育指導者をやっていますがスタッフ達にはこの苦労を体験させたくないので、オーナーとしては最低かもしれませんが一度もノルマを課したことはありません。
ブロガーにも当時の教え子や保護者が多数いますが、このカミングアウトで私のことをどう思ったでしょうか?
表題とはかなりかけ離れた、ある意味こじつけの本日のブログですが、Jリーグ20年の節目に思いを書いてみました。この20年で確かに日本サッカーは技術面も興行面も国民の意識の面からも凄い飛躍をしました。そして私もサッカーと別れた事で楽しく観戦することが出来ています。
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